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1.嵐の予感

「今日は早く帰るって約束したのに……」
 セリスは今にも泣き出しそうな顔で怒っていた。
 今日は報告したいことがあった。ロックには「早く帰ってきてね」と言っただけだが、勿論彼は頷いて出ていった。なのに何故12時を過ぎても戻らないのか……。

 現在、二人はベクタに滞在していた。
 ケフカを倒した後、旅に出て1年半が経つ。エドガーのために世界を見て回り情報を集めながら、時折トレジャーハンターもしている。
 怒濤の人生を送ってきたセリスにとって充実した日々を送っていた。……ここに来るまでは。
 ベクタに来たのは一週間ほど前だ。復興はほとんど終わっているが、城跡だけが未だに痛々しい傷跡として残っている。
 明後日にはツェンに向けて発つ予定だ。普段は一所にそれほど長く滞留したりはしないのだが、ここのところ移動ばかりだったためセリスが体調を崩し、思いの外長い滞在となっている。
「またアスタリスクにいるのかなあ……」
 宿屋の一室でベッドの端に腰掛け小さく独り言を漏らしたセリスは、溢れそうになる涙を堪える。
 アスタリスクとは町の中心にある居酒屋だ。そこの主人(マスター)であるバロンは、ロックが昔──トレジャーハンターの先輩として──世話になった人だとかいうことで、毎日店に通っている。
 だが、本当にそれだけなのだろうか? バロンの娘がいるからでは? そんな余計なことを考えてしまう。
 アスタリスクの看板娘であるマルグリッテは、黒髪にラベンダー色の瞳をした可愛らしく女らしい、要するにセリスと正反対の女性だ。年はロックと同じ位だろうか。少しレイチェルに似ている気もする───少なくともセリスよりははるかに。
 彼女とも知り合いらしく、再会したときのロックの嬉しそうな顔は今までに見たことがないような笑顔だった。
「約束したのに……」
 セリスは唇を尖らせて呟く。
 ベクタに来てから、ロックは余りセリスと一緒に居てくれない。彼女の体調が悪くて動けないせいなのかわからないが、
「もしかして、私といるのが嫌になったのかな」
 心細かった。一緒にいる時間は前と変わらないような気もするし、なんだか落ち着かない素振りを見せてくる気もした。
 正直、ロックと顔をあわせるのは少し恐い。
 セリスは今日、医者に行ってきた。一週間前、ベクタに来た初日に行き、
「おめでたかもしれませんよ」
 と言われたのだ。いきなりのことで戸惑うセリスに、初老の医師は、
「まだ確実ではないので検査しますね。一週間後に結果がでますから。それまでは吐き気を押さえる漢方薬を処方しておきましょう」
 そう優しく言った。
 ロックにはそれを告げていない。まだ事実かどうかわからないのに困らせたくないからだ。
 そして今日、その結果が出た。
「おめでとうございます」
 医師に微笑まれ、セリスは微妙なはにかみを返すことしかできなかった。
 旅を続けても平気かと尋ねると、医師は当然のごとく渋い顔をした。
「もし無事に産みたいなら無理はしない方がいい。後悔してからでは遅いんだからね」
 その言葉に、セリスは素直に頷くしかなかった。
 朝はどんな結果でもロックに報告するつもりで早く帰るよう約束させたが……ロックは何て言うだろうか。
 たまにロックがわからない。今、みたいな時に。
 すごく大事にされていると感じることもあったけど、どうでもいいのかもしれないと感じる時もある。特に、ベクタに来てから妙にそわそわしている。上の空でセリスの存在なんて忘れているんじゃないか、なんて不安になったりするのだ。
 旅に出たのだって、セリスが「一緒に行ってもいい?」そう尋ねたからだ。その時、彼は「勿論」と答えてくれた。だが断る理由がなかっただけかもしれない。彼が一緒に行くことを望んでいたわけではにのだから。もしセリスから言い出さなかったらどうしたんだろう?
 言葉で好きだと告げられたこともない。あえて言うならばオペラ座の時だけだ。もう何年も前の話。今、ロックは自分をどう思っているのか……。
 セリスを抱くことを考えると、恋人程度ではあるのだろう──遊びで女を抱ける人ではない。だが、未来のことまで考えていてくれてるのかわからない。
 ここで自分が旅を出来なくなったら捨てられるだろうか……責任感の強い男だからそれはないだろう。だけど責任感でなんとかしてもらっても虚しいだけだ。相談する相手もいない。
 寝不足は身体によくないから早く眠るべきなのだろうが、とても眠れる心境ではなかった。
「何やってるのよぉ……」
 セリスはたまらない不安を抱え、待つことしかできなかった───。

 

†  †  †

 

 結局、ロックが帰ってきたのは───朝、5時だった。
 そろりとドアを開けたのだが、
「何してたの?」
 恨めしそうな声が聞こえて、ロックは飛び上がりそうになる。
「お、起きてたのか?」
 頬を引きつらせて笑みを作ったが、
「何、してたの?」
 低いドスの効いた声で尋ねられ、ロックは苦笑いをした。
「い、いや、一杯だけと思ったんだけど、バロンが賭けしようとか言ってきて、負けて飲まされてべろんべろんになっちまって……」
 あははと空笑いしながら誤魔化すように頭をかいてみる。
「へぇ……?」
 疑うようにロックを横目で見つめる彼女の目が異常に恐い。今までセリスがこんな怒った顔をしたことなどなかったから、驚きもあって余計だ。
 しかし浴びるように飲んだのは久々のため、酒の力に勝てない。襲い来る眠気に勝てそうもなかった。
「ふわ……悪いんだけど、飲み過ぎて気持ち悪いんだ。少し眠ってきたんだけどな。寝ていいか?」
 とにかく眠いロックはベッドに突っ伏した。それを見ていたセリスはすっと目を細め、
「勝手にしたら」
 諦めがちな声で言ったが、既にロックは寝息を立てていた。
「信じられない……!」
 セリスは一人呟く。ロックがこんな人だとは思わなかった。約束は絶対に守る人だと思っていた。一言詫びてもいいではないか。
 余りに怒りすぎて興奮が冷めず、もう眠れるわけがない。苛立たしそうに椅子に座って床をつま先で叩く。
 ぐるぐると頭を(めぐ)るのは、どうすれば溜飲(りゅういん)が下がるのかということ。
 窓の外は既に白けてきていた。
「本当に、私のことなんてどうでもいいのね……」
 唇を噛みしめた時だった。
    コンコン
 扉が鳴った。こんな朝早くに誰だろう? 宿の人だろうか。不審に思うと、
「マルグリッテです」
 遠慮がちな可愛らしい声がした。
 マルグリッテ? 何の用だろう? さっきまでアスタリスクでロックと一緒だったんじゃないのだろうか。
 セリスは訝しげな顔で部屋の鍵を回し、扉を引いた。
「すいません、朝早く。朝市に行く前にと思って」
 マルグリッテは優しげな笑みを浮かべる。おっとりした女性に見えるが、ロックの話によると気は強いらしい。
「はあ……」
 セリスは何が「朝市に行く前に」なのかわからず、気の抜けた返事をもらす。
「これ、ロックが忘れていったから」
 彼女は小さな紙袋を差し出した。それを届けるために来たのだろうが、こんな朝早く届ける必要があったのだろうか。
「はあ。どうも」
 セリスがとりあえずそれを受け取ると、彼女はにっこりと余裕の笑みを浮かべて帰って行った。
「忘れ物?」
 変な顔で首を捻りながら、紙袋を覗いた。
「────────何、これ」
 眉をしかめて中身を取り出す。
 ベルト、バンダナ、財布───?
「どーすればこんなもの忘れるわけ?」
 そういえば少し寝てきたと言っていた。その時だろうか。それにしても、どうしてベルトを外す必要があったのだろう。お腹が苦しくて気持ち悪かったから? それとも……
 まさか……セリスの胸に過ぎる嫌な予感。
「ロック!」
 深い眠りに落ちているロックを叩き起こす。が、全く無反応だ。
「ロック!!」
 肩を揺すると、
「ん……もう飲めねー。マルグリッテ、勘弁してくれよ」
 などと呟きやがった。
「バッカじゃないの!」
 セリスの怒りが更に高まっていく。
「ロック! 起きなさい!」
「んあ~? あ~、暑い」
 ロックは呟いて、Tシャツを脱ぐとセリスに渡した。寝ぼけているらしい。
「な、何よ!」
 そのTシャツを投げ捨てようとして、手を止める。
「ん……?」
 白いTシャツに付いている赤いもの。血? かと思ってよく見ると、
「これって……」
 ×××マーク……キスマークじゃないの!
 淡いピンクベージュ。マルグリッテの付けている色。
 もうこの怒りを堪えられそうになかった。目を剥いてロックを睨み付け、また別の事に気付く。彼の厚すぎない胸板に、うっすらと見える桜色の跡。虫さされのようにも見えるそれは……
「冗談、でしょう?」
 正真正銘のキスマークらしきものに、セリスはこめかみを引きつらせTシャツを握り締めた。
 もう弁明も聞きたくない。壁に立てかけてあったロックのアルテマウェポンを取り、鞘を付けたまま、彼の鳩尾を思い切り突いた。
「うぐっ……」
 ロックの身体が丸まる。
「う……いって……なんだ……?」
 さすがに目を覚ました。
「くそっ、なんだってんだ?」
 腹をさすりながら背中を丸め、セリスを見上げた。
「お前かよ! 何だよ、いきなり!」
 突然暴力を振るわれたとしても、寝起きでもなく素面だったらこんな言い方はしなかっただろう。
「何だよじゃないわよ! 一体、何してたわけ?」
「はあ? 俺は眠らせてくれって言わなかったか? 後にしてくれよ。くそ、マジで痛ぇ。信じらんねえ。俺を殺す気か!?」
 酒が残り寝ぼけているせいで、いつになく柄が悪い。
「あんた、よくそんな偉そうなこと言えるわね!」
「あ? 何で叩き起こされて喧嘩売られるんだよ。いい加減にしてくれ! 俺は寝る!」
 宣言し、ロックは再び寝入ってしまった。この寝入りの早さにはいつも感心するのだが、今日は腹が立つ限りだ。
「いい加減にしろ!? それはこっちの台詞よ!」
 セリスはもう一度、剣を振り下ろした。
「ぐうっ……」
 呻いたロックは、ガバッと身体を起こし、
「だから! 一体、何なんだ!」
 怒鳴った。逆切れだ。
「うるさい! 貴様は父親になる資格なんかない!」
 更にキレているセリスは、その剣でロックの頭を殴りつけた。無論、死なないように手加減はした。どんなにムカついたとしても、殺してしまいたいとは思えなかった。ただ許せないだけだ。
 ロックは頭を押さえ、ベッドに倒れ込む。うまく脳震盪を起こしたようだ。
 その姿を見ているセリスに、もう憤怒の表情はなかった。

 

†  †  †

 

 目が覚めたのは、既に陽が傾いてきてからだった。
「くっそ、腹と頭が痛え」
 ロックは顔をしかめて身体を起こす。
 今何時だ? 時計を見た。4時19分……そういえばセリスの姿が見えない。……ていうか、荷物も、ない……。
「あれ……?」
 首を捻り、唐突に思い出した。腹が痛いのも頭に瘤があるのもセリスに殴られたからだ。しかもアルテマウェポン(鞘だけど)で。
 理由は全く不明だが、そうえいば激昂していた?
「どーなってんだ……?」
 彼女が色々怒鳴っていた気がするが、よく覚えていない。
 とりあえず階下の食堂に行くと、
「あんた、何したんだい?」
 艶やかな美人女将が、呆れ顔で声をかけてきた。
「は?」
「彼女、朝早くに出て行ったよ。清算して自分の分だけ払ってさ。どうしたのかって聞いたけど、答えちゃくれなかった。歯ぁ食いしばって、怒りを堪えてたね。今朝の朝帰りが原因かい?」
「出てった……?」
「ああ。一応、行き先は聞いたけど『さあ?』って言われたよ。まあ、決めてないような感じだったけどね」
「マジかよ……」
 ロックは呆然としてしまい、女将がまだ何か言っていたがてんで頭に入らなかった。
 部屋に戻っても、しばらくはぼうっとしていた。何も考えられず、思考が止まっていた。
 少し落ち着くと、原因を考えてみた。思い当たることはないが、やはり飲んでへべれけになって帰ってきたのがいけないのだろうか。だがその程度であんなに怒るだろうか。酔って余計なことを言ったのだろうか。しかし残念ながら覚えていない。
「あれ? そういえば……」
 話があるから早く帰れって言われてた気がする。
「やっべえ……」
 つっかり失念していた。いや、バロンに飲まされる前までは覚えていたのだが、それももう同じ事だ。
 しかし、それは一人で出ていく程のことなのだろうか。
「話って一体なんだ?」
 もし、元々別れようと言おうとしていたんだとしたら……そんな事を考え、胃が落下したような錯覚に襲われた。
 ここのところ、セリスの静養をいいことに外に出っぱなしだった。しかし遊んでいたわけではない。この間手に入れた古い魔具を売る算段をつけたり、そのお金でこれまたこの前手に入れたプラチナとダイヤとタンザナイトを加工してもらうことを頼んだり、次のトレジャーハントの情報を探したり、と忙しかった。
 そういえば、ベクタに来てからセリスは様子が変だった。正確にはベクタで医者に行ってから。
 上の空だったり思い詰めた顔だったりした。バロンの仕事(居酒屋ではなく別の力仕事)を手伝わされたりもして、毎日クタクタだったため気遣えなかった。ただの風邪と言っていたが、もしかしたら重い病気だったのか……?
 考えて不安になり、立ち上がる。ともかくここを発つつもりだった。
 どこに行ったかわからないが、まず情報収集だ。じっとしていても何も変わらない。
 しかし、荷物を開けてハタと気付く。
 財布がテーブルの上にある。何故かバンダナとベルトと一緒に。そこにはいくらかの金が入っている。なのに、荷物の中のまとまった金が……無い。
「まさか……セリス?」
 ロックの金を盗んで逃げたというのか。
「そんな馬鹿な……」
 しかしそれしか有り得なかった。宿代の支払いなどに使う金は大きめの財布に入れ鍵が掛かっている。番号式のものだ。財布と鍵は残り、中身が無い。
「つーか、宿代どーしろってんだ……。大体、ここまでやるか?」
 よく考えて腹が立ってきた。嫌がらせでありロックを足止めするための手段なのだろうが……。
「くそっ、もう知らねー!」
 ロックは吐き出して、セリスの事を頭から追い出そうとベッドに横になった。

 

■あとがき■

 7777Hitアオゥルさんのキリリク☆ 『ロックとセリスが本気で喧嘩してしまう』話です。
 嵐の予感どころか、嵐吹き荒れてます。ええ。どうやって本気で喧嘩させるのか、ものすごく悩みました。だってロックは結構大人だから、喧嘩してもセリスが一方的に怒るとかになるかな……とか思って。結局、こうでした。少し無理矢理かしら? 全5話にする予定です。
 アスタリスクという店の名は、新橋の会社近くのパスタ屋さんです。結構おいしいですが、昼休みが50分しかなくなってからは行ってません。 (03.9.20)
 文章補正を行いました。 (05.11.03)

2.孤児院で

 普段と何一つ変わらぬ空の下、ティナは子供達の靴を洗っていた。
 モブリズは今や孤児院の町となっている。
 戦争で子供と夫を亡くした女が世話をしたいと集まり、親を亡くした子供が連れて来られる。
 そのため靴の量も半端ではない。無論、全て分担であり子供達も手伝ってくれる。それでも所詮子供だ。さぼりたがったり、いい加減に洗ったりする子供の世話を同時にしなければならない。
 決して楽ではないが、それでもティナは充実した日々を送っていた。
「やっと終わった……」
 物干しに洗濯バサミで止められた靴を見て、満足げに頷く。
「次は……」
 振り返った時、一人の少女が走り寄ってきた。息を切らしている。イルスという名の13歳の少女で、ツェン出身だ。
「ママ! ティナママ! 大変なの! 人が……血を出して倒れてる!」
「えっ!!」
 ティナは仰天したものの、すぐに現場に案内してもらい、更に驚愕した。
 村を出て少し行った所に倒れていたのは……
「……セリス! セリスじゃない!」
 駆け寄り、出血の量にギョッとする。
 ティナが顔を蒼白にしていると、マデリーンが1組の男女と青年を連れてやってきた。
「チャーリー! スヴェラ!」
 ティナは救われた思いで立ち上がり、場所を空けた。
 彼等は夫婦でモブリズに住んでいて、チャーリーは薬師、スヴェラは看護婦である。子供ができない身体ということで、孤児達の世話をするために望んでここにやって来た。
 そしてもう一人の青年はアルフレッドという名だ。おっとりとした性格だが腕はめっぽうたち、村の用心棒も兼ねている。
「これは危険だ……。アル! すぐに運ぼう!」
 チャーリーが叫んだが、アルフレッドは何故か惚けたような顔をしていた。
「アル!」
 怒鳴られてビクッとすると、ようやくアルフレッドは我に返り、慌てて、
「あっ、はい」
 頷くとセリスの傍らに膝をついた。
「ああ、助かって、セリス……」
 ティナには祈ることしかできなかった。

 

†  †  †

 

 目覚めて最初に飛び込んできたのは、透き通った二対のエメラルドだった。
 懐かしいそれに焦点が合う前に、
「セリス! 気が付いたのね!」
 心底安堵したような声。ティナだ。
「私……」
 ぼんやりとした頭を巡らせ、突然あることを思い出しガバッと身体を起こす。
「子供は……っ!!」
 叫んだものの眩暈がしてよろめくと、ティナが身体を支え言った。
「もう大丈夫よ。でも一時は危なかったの。三日も眠ってたんだから」
「……そう……」
 セリスはティナに肩を押され、再び横になった。
 彼女が目覚めたばかりであることに逡巡したティナだが、結局疑問を口にしていた。
「一体、どうしたの? 一人で。……ロックは? ロックの子なんでしょう?」
 その問いに、セリスはフイッと横を向き、
「…………ロック、浮気してたの」
 小さく呟いた。
「えっ!?」
 ティナは耳を疑う。あのロックが浮気? 想像もつかないものだった。あの真っ直ぐな男が浮気をするなんて……。
「ううん。私は恋人でさえなかったのかもしれない。好きだと言われたわけでもないから……」
 セリスは泣いていた。静かに涙を落としていた。
「セリス……。ロックは子供のことは知ってるの?」
「いいえ。帰ってきたら言おうと思っていたのに、帰ってこなくて……」
 遂にセリスは嗚咽を漏らし泣き始めた。
「ごめん、目覚めたばかりなのに……。また休んで。当分安静にしてた方がいいみたいだから」
 そう言いながらも、ティナはセリスが泣きやむまで震える背中を撫でていてくれた。


 次にセリスが目覚めたとき、傍らにいたのはティナではなかった。
 くすんだブロンドに穏やかな草色の瞳の青年。ぼんやりとその輪郭を捉え、セリスは首を傾げる。
 焦点が定まると、青年は静かな微笑を湛えていた。
「気分は?」
 柔らかく心に沁みるような優しい声。それはかつて、毎日のように聞いていたものだった。
「アルフレッド……なの?」
 セリスは掠れた声で尋ねた。信じられない思いで。
「ええ。そうです。……貴女と再会できるとは思っていなかった」
 アルフレッドは水差しから水を汲み、セリスに渡す。身体を起こしたセリスはそれを飲み干すと、
「どうしてここに?」
 アルフレッドを、かつての部下を見た。
 セリスの将軍時代、副将として常に彼女を支えてくれた男だ。レオ将軍が「信頼できる者を」と寄越した男で、レオ将軍の親戚らしい。穏やかで温厚な男だが、剣の腕だけとればセリスより格段に上、レオと並ぶ程だった。
「旅をしていて立ち寄ったら居心地がよくて、そのまま居着きました。一応用心棒ってことになってるみたいだけど、子供の世話をしている方が多いかもしれません」
 苦笑いを浮かべるアルフレッドに対し、セリスは苦しそうに俯いた。
「あの時は……ごめんなさい……」
「いいえ。私が傍にいれなかったことは悔やみましたが、貴女は間違っていなかった」
 アルフレッドはあくまで落ち着いて優しい表情を浮かべている。ちなみにこの男は怒らせると言葉に表せない程に恐い。
「……ありがとう。あなたには昔から助けられてばかりな気がする」
 セリスは照れたようにはにかんだ。
「貴女は変わりましたね」
「え?」
「女らしく表情が優しくなったし、ますます綺麗になった」
 さらりと言われ、セリス思わず赤面した。
「起きがけに余り長く話すとお腹の子にさわるでしょうから、今日はこの辺で失礼します。ティナを呼んできますね」
 アルフレッドは始終変わらぬ笑みで部屋を出ていった。

 しばらくするとトレイを持ったティナがやって来て、セリスは手作りのおかゆとスープを空っぽの胃に流し込んだ。
「アルさんと知り合いなんですってね」
 食事を終えたセリスに、傍らで待っていたティナが言う。
「ええ。帝国時代にね」
「アルさんから聞いたわ。セリスが処刑になるって聞いて、サウスフィガロに行かず帝国に残ったことをすごく後悔したって。だからセリスが逃げたって聞いたときはホッとしたって。優しくていい人よね。セリスのことすごく大事に思ってるみたいだし」
 ティナににっこり微笑まれ、セリスは苦笑いをした。
 昔、自分はアルフレッドに憧れていた。シド博士もレオ将軍もいたが、最も孤独である戦場で傍にいてくれたのはアルフレッドだった。
 彼がいてくれたから、自分は壊れず心を保てたのだと思う。正直、大半の者に自分は疎まれていた。小娘のくせに魔法が使えるというだけで将軍だと。表情一つ変えぬセリスは女どころか人間ですらないと。それでも彼等を置いて帝国を裏切ったことに罪悪感があった。アルフレッドがいたからだ。自分が裏切れば彼に迷惑がかかるのは明白であるというのに……。
 素直に弱音を吐けないセリスをいつも労ってくれた。どんなに「余計なお世話だ」と叫んでも、笑って過ごしてくれた。自分はどれだけ彼に救われていただろう。
 そして、今───自分は何をしているのだろう。
 お腹に子がありながら、無茶をして逃げてきた。そんな情けない自分をアルフレッドに見られてしまったことがひどく恥ずかしい。
 黙ってしまったセリスに、ティナはゆっくり口を開いた。
「ねえ、浮気って本当なの?」
「……実際、現場を見たわけじゃないんだけど、状況証拠ってやつ。まあ、泥酔してたから本人にその記憶があるか定かでもないのに、確かめようもないわ」
 セリスは平気なフリで肩をすくめる。事実、あの晩よりはかなり気持ちも落ち着いていた。ティナと、そしてアルフレッドのお陰なんだろう。
「なんだか信じられない」
 ティナが呆然と呟く。セリスは苦々しい笑みで口を開いた。
「私は、覚悟してた。言葉が全てじゃなくても言葉1つくれない。ううん、例えくれたとしても、私は自分に自信がないのね。いつか捨てられるかもそれないって……その時に傷付きたくないから覚悟してた」
「……セリス……」
 ティナの鮮やかな二対のエメラルドグリーンに影がさす。
「そのことは気にしないで。それより悪いんだけど、しばらく世話になっていい? 行くところもないし……」
「勿論! ずっと居てくれてもいいのよ。……子供を一人で育てるのは大変だわ」
 ティナはカタリーナが子供を産んだのを見てきてそう感じていた。おしめを替える手伝いをしたりしたが、何より夜泣きが一番大変だ。セリスが一人で仕事をしなければならないとしたらなおさらだろう。
「ありがとう……」
 セリスが心底感謝して言うと、ドアが小さく開いた。
「ティナママ……?」
 恐る恐る声を掛けてきたのは可愛らしい男の子だった。4、5歳だろう。
「ん? どうしたの?」
 ティナは本当に母親のように慈愛に満ちた表情を浮かべる。
「僕、転んじゃって……」
 おずおずと入ってきた男の子は、膝を擦り剥いている。
「じゃあ消毒しないとね。セリス、また後で来るから」
 ティナはその子の手を引いて、部屋を出ていった。

 

†  †  †

 

 体調が戻ってくると、セリスは孤児院を手伝った。
 子供は苦手だとずっと決めつけていたが、接してみると可愛いものだった。勿論、生意気でむかつくこともあるけれど。
 周囲の大人達もいい人ばかりで、セリスは少しずつだが自分の傷が癒されていくのを感じていた。
 だからといって、彼を、ロックを忘れることができたわけじゃない。
 思い出すと、ひどく苦しく泣きたくなってしまうから、できるだけ考えないようにしていた。そういう意味では、忙しさに追われていれば思い出さずに済む環境だと言える。だから癒されたような気がするのだ。
 いつか、ロックのことも良い出とできる日がくるのだろうか……。
 この子に父親のことを何て言えば良いんだろう? セリスはそんなことを考えてしまう。きっと、一番いいのは死んだと告げることだ。まさか「浮気して……」と子供に言うことはできない。
 幸いここは親のいない子ばかりだ。それでも幸せそうに暮らしている。本当にいいところだ。何より嬉しいのは、ティナの充実した表情だった。

 午後、洗濯に一段落がついて、セリスが木陰で休んでいるとアルフレッドが近寄ってきた。
「無理してませんか?」
 優しい笑みを向けられると、セリスはいつも苦しくなる。そんな風に言ってもらう資格はないのに、と……。
「敬語はやめてって言ってるでしょう? あと、敬称もよ?」
 軽くアルフレッドを睨み付けると、彼は破顔して、
「わかってるんですけどね。突然は変えられないです……また敬語ですね。努力……するよ」
 両手を上げ、降参のポーズを示した。
 こういうアルフレッドを見ていると、何故かセリスはホッとする。同時に何故か恐い気がした。
 彼はセリスの隣に腰を下ろすと、さぞ言いにくそうに、
「貴女の……恋人は浮気したんだって?」
 前を向いたまま言って、横目でちらりとセリスの顔色を窺う。セリスは無表情に、
「そう、みたい……」
 と呟いた。正直、彼相手に余り口にしたくない話題だ。

 将軍時代の自分をよく知る人に、弱い部分や女らしい部分を知られるのは、恥ずかしいと思う。
「ティナから状況証拠とかって聞いたけど、詳しく聞いてもいいかな? ……その……貴女が好きになったような人が、浮気するなんて信じられなくて」
 アルフレッドは本当にそう思って言っているのだろう。
 セリスは随分迷った後、ぽつりぽつりと言った。あの日の事を全て。ティナには言葉を濁したことも包み隠さず言った。アルフレッドは笑ったりしないし真面目に聞いてくれるだろうと思ったのだ。ちなみにティナには、失礼な話だが意味をわかってくれないかもしれないと思って言ってない。
 それを聞いたアルフレッドは、首を傾げながら言った。
「微妙な状況だな……。ただ本人に確かめてないんでしょう? 絶対とは言えないんじゃないですか?」
「だって……他にどんな理由があって」
「まあ、確かにそうだけど……。で、貴女は、彼のことはもういいの?」
「え?」
 セリスはキョトンとする。
「剣で殴るほど怒ってゲンメツしたって言っても、まだ好きなんじゃないのか?」
 アルフレッドの質問に答えられずセリスは俯いた。
「ティナの話を聞いても、君の恋人がそんな男には思えない。本当にちゃんと確かめなくてもいいのか? どうでもいい?」
 何故、こんなことを聞いてくるのだろう? 思い出したくない。考えたくないのに。
 セリスが黙ったまま答えられずにいると、アルフレッドは困ったように頭をかいてはにかみ、
「もし……貴女が今はまだ忘れられなくとも、忘れたいと言うのなら……僕が、傍にいてもいいかな?」
 予想だにしなかった言葉だった。セリスは顔を上げ目を見開く。
「……え?」
 思考がついていかない。
「本当は困らせたくないし、気を遣わせることになるかもしれないから黙っていようと思っていたんだ。でも、辛そうな貴女を見てくられなくて……」
 彼の真剣な眼差しに、セリスは動けなくなる。
「アルフレッド……。ごめんなさい、いきなりで驚いているの。そんな風に言われた事なんてなくて、なんだか信じられないわ」
「君は謙虚だな。勿論、今すぐの返事じゃなくていい。ただ、そういう選択肢もあるって頭に入れておいてほしいんだ。君の子であるなら、僕の子でなくても僕は気にしないしね」
 言い終えるとアルフレッドは立ち上がり、
「そんなに深く悩まないでほしい。ただ伝えたかったんだ。昔、結局僕は貴女を支えきれなかったから、後悔したくなくてね。言いたかったんだ。……僕は戻るよ。ウッド──孤児院で飼っている白いむく犬──の散歩に行かなきゃならない」
 そう言い終えると、立ち去って行った。
「アルフレッドが私を……?」
 セリスはしばらく呆然としていた。
 こそばゆいような照れくささと暖かさ生まれると同時に、正体不明のもやもやが、胸に巣くっていた。

 

■あとがき■

 またオリキャラ登場です。しかも『prisoner』のアレクスと同一人物!? 設定は似ていますが、今回のアルフは逃げたりしてません。
 セリスはアルフレッドに癒されて、幸せになってしまうのか……! なんて書いてみたりしてね。そんな話にはなりませんが、最後までハラハラさせたいと思っています。 (03.9.26)
 文章補正を行いました。 (05.11.03)

3.君の元へ

「ロック、明日はツェンで祭があるの。行ってみない? 気分転換になるわよ」
 夕飯を終え煙草をふかしているロックに、マルグリッテが笑顔で近付いてきた。
「……俺はいいよ」
 ロックは力無く首を横に振る。
「何言ってんだ! いつまでも腑抜けてないで、行ってこい!」
 バロンが背をばんばん叩き、ロックは思わずむせかえる。
 ロックは現在、バロンの所に世話になっている。事情を話し宿代は立て替えてもらった。その分も返しながら、バロンの仕事──酒場ではなくハンター(いわゆる何でも屋)──を手伝っていた。
 なんだかやる気のないふてくされた日々を送っている。とりあえず、全ては金を返してから考えようと思う。今はまだ何も考える気にならない。腹立たしさやとまどいが混じった複雑な感情から抜け出せないで居た。
「お前なあ……そんなにウジウジした男じゃなかったろうに」
 バロンは呆れ顔でため息をついた。
 セリスについて「出て行った」以上を語ろうとしないロックは、その事を話題にしようとすると不機嫌になり、だんまりを決め込む。
 当のセリスと“とある約束”を交わしてしまっているバロンは複雑な心境だ。
 一方、娘のマルグリッテがロックに好意を持っている事実に関しても、この上なく複雑だった。
 彼が誠実でいい男なのは知っている。しかし彼がセリスを想う気持ちが半端でないことも悟っていた。マルグリッテは眼中ないのだ。娘に忠告したところで聞いてはくれないし。
 ムスッとしているロックに、マルグリッテはもう一度、
「ね、行こう?」
 明るく言った。めげないところは我が娘ながら結構しぶとい、とバロンは思う。
 そんなマルグリッテを怪訝そうに見たロックは、諦めがちに項垂れると、
「仕方ねーな……」
 渋々だが承諾した。
「明日は仕事もねーって言うし、行くよ」
 不承不承だとしても、マルグリッテは嬉しそうに頷いた。

 

†  †  †

 

「ロックが浮気……ねえ? どう思う?」
 政務室で1通の手紙を前に、フィガロ王エドガーは顔を上げた。視線の先には、人を馬鹿にしたような表情を浮かべる、世界で唯一の飛空挺の持ち主セッツァーがいる。
「ありえねーだろう。奴はそんなに器用じゃない。情に厚いところはあるが、結局は前しか見えてないような男だ」
 決して誉めているとは言えぬ返事を発し鼻で笑うセッツァーに、
「私も同感だね。しかしすぐにセリスを追わないのは何故だ?」
「さあなあ。ロックは何でも一人でやろうとする節がある。更に、あいつの考えは俺達には計り知れねーな」
 死んだ恋人を生き返らせようと努力し続けるなんて、セッツァーにもエドガーにも絶対にできないし思いつきもしないことだ。発想が違いすぎる。
「少し、調べてみるか」
 エドガーは顎をさすりながら呟いた。


 1週間後。
 エドガーは部下の持ってきた報告書に目を通していた。

○月×日
“アスタリスク”という居酒屋を営む男バロン(ロック・コールの昔の恩人らしい)の娘マルグリッテ嬢と早朝から街を出た。目的地はツェンの祭。同じ馬車に乗ることができた。マルグリッテ嬢はしきりにロック・コールに話しかけ、ロック・コールもまんざらではない様子。
二人は並んで祭を見て回った。仲良く手を繋いでいた。ロック・コールは何かを買ってあげたりはせず、逆にマルグリッテ嬢が買ったバンダナを押しつけられていた。
夕方、帰ろうとする二人を追ったが、こちらは次の馬車になってしまった。見失ったかと思ったが、ベクタで宿に帰る途中、公園で抱き合っている男女を見かけた。ロック・コールとマルグリッテ嬢に間違いなかった。話し声までは聞こえなかったが、暫くすると身体を離し、二言三言交わしたかと思うと、ロック・コールがマルグリッテ嬢に口づけた。そこで散歩中の犬に吠えられたため、慌てて逃げることになり、以降は不明。

「…………微妙だ……」
 エドガーは変な顔をした。内容も微妙だが、同時に犬に吠えられて逃げた部下も微妙だと思う。
「ロックらしくない。よっぽど答えているのか? だから正常な状態じゃないのか?」
 翌日、セッツァーにもその報告書を読ませた。
 セッツァーは眉間に皺を寄せ、
「どんな理由があろうと、あいつらしくねーな。ったく、放っておけねえよ。俺は活を入れに行く!」
 そう宣言した。
「私も行きたいものだ」
 意気揚々としたセッツァーに対し、エドガーは残念そうに肩を落とした。


「ねえ、ロック?」
 祭の帰り、散歩しようと言うマルグリッテに付き合って、公園を歩いていた。
「ん?」
「私……じゃ、だめ?」
 足を止めたマルグリッテはロックを振り返る。
「……は?」
 突然言われた問いに、ロックは目を点にした。
「私じゃ……あの人の代わりになれない?」
 その言葉に、ロックは息を詰まらせた。
『私は……あの人の代わりなの?』
 昔、オペラ座でセリスが言った台詞が蘇る。
「俺は……」
 苦しそうに唇を歪めたロックが顔を背けると、
「私は……あなたが好き」
 マルグリッテがロックの胸に飛び込んできた。唐突だったのでよろけそうになるが、なんとか彼女を受け止める。
「ずっと前から、始めて会ったときから……好きだったの」
 泣きながら訴えるマルグリッテに戸惑いながら、ロックは彼女の背をさする。
「俺は代わりとかそういうのは考えたくないんだ。お前のことを、そういう風には見れないし」
 そう静かに告げた。まだセリスを忘れていないという以前に、マルグリッテのことを女として好きになれるとは思えなかった。そんなことを考えたことはまったくなかったのだ。それはこれからも変わらない。
「そっか……」
 沈んだ表情で、自分から身体を離したマルグリッテは、
「覚悟してたけど、やっぱり辛いね……」
 泣き腫らした赤い目ではにかんだ。そしてロックを見上げ、
「諦める。だから……最後にキスしてくれる?」
 可愛らしい表情でねだった。
 うっ、そうきたか……。ロックは一瞬躊躇したが、
「わかった」
 やけくそ気味に答えた。以前のロックなら断っただろうが、正直、今は全てがどうでも良かった。
 マルグリッテに口づけて、セリスと違う、これがセリスだったなら……知らずそんな想いが浮かび、ロックは自分の愚かさを恨んだ。

 

†  †  †

 

 セリスがいなくなってから1ヶ月が過ぎたある日、ベクタ近郊に一艇の飛空艇が降り立った。
 そんなことはつゆ知らず、バロンに散々コキ使われてくたくたのロックは、
「ビール!」
 叫んでアスタリスクのドアを開けた。
 宿代の借金は返し終えている。後は旅に出るための費用稼ぎだ。
「あ、お帰りなさい」
 マルグリッテは以前と変わらぬ態度で接してくれる。本当にありがたい話だ。
「お客さんが来てるわよ」
 珍しいことを言われ眉をひそめた。店内を見回すと、右の方に威圧感いっぱいでロックを睨む銀髪の男がいた。
「セッツァー……」
 あんぐりと口を開け間抜けな顔をしていると、立ち上がったセッツァーがつかつかと歩み寄って来た。
「よ、よお……」
 ロックは微妙な表情で挨拶をしたが、
「表へ出ろ」
 開口一番、低い声で脅すように言われ、
「は?」
 ロックは眉根を寄せた。表へ出ろ?
「いいから出ろ!」
 セッツァーに無理矢理連れ出されたかと思うと、次の瞬間、ロックは宙を舞っていた。
「……っ! 痛ってぇ! てめー、いきなり何すんだよ!」
 殴られた頬をさすりながら立ち上がる。全く予想していなかったため、思い切りくらっていた。歯が無事なのが奇跡だ。それでもやはり口の中は切れている。苦い鉄の味がして、それを吐き出しセッツァーを睨み付けた。
「心当たりがあろうだろ」
 セッツァーの突き放すような言葉に、ロックは渋い顔になる。
 間違いなくセリスの件だろう。くっそ! 俺はぜってー被害者だ! そう思ったが、女々しいため口にはしなかった。
「んで? 殴りに来たのか?」
 ロックは憮然として尋ねる。
「今のは気合いを入れてやっただけだ。目ぇ覚ませってことだ」
「……うるせ。くそっ、まじで飲まなきゃやってらんねーよ」
 荒々しく扉を開け、ロックは再び叫んだ。
「ビール!」
 5分後、頬を濡れタオルで冷やしながら、セッツァーと向かい合ってビールを飲んでいた。
「で、何があったか詳しく話せよ」
 セッツァーに促されても、ロックはぶすっと不機嫌そうな面で、
「わからん」
 そう答えた。セッツァーは面食らったように言う。
「わからんってなんだよ」
「早く帰るって約束忘れて泥酔して帰ったら、アルテマウェポンでぼこぼこにされた。気付いたらセリスはいなかった。以上!」
 ロックはやけくそ気味に吐き出す。
「以上って……お前」
 セッツァーは呆れ顔になる。本当にロックはわかってないらしい。
「泥酔した時の記憶ってのはあんのか?」
「わかんねー。あんまし覚えてねー。……あー、くそっ、嫌なこと思い出した」
「なんだ?」
「オカマに襲われそうになった……」
「なんだそりゃ」
 セッツァーは思いっきり変な顔をする。ロックはそれ以上に変な顔で、
「まじで胸くそ悪い……。とりあえず頭突きして難を逃れたけどな。思い出したくねえ」
 頭を振った。そりゃ思い出したくないだろう。セッツァーだって嫌だと思う。
「他にはないのか?」
「は? さあ……。酔っぱらってそのうちここで寝ちまったみたいだな。その辺になると覚えてねえ」
 となると、ロックはその覚えてない部分で浮気したのだろうか。あのマルグリッテ嬢と。
 ティナからの手紙には、セリスがどうして浮気だと思ったかなどは書いていなかったからわからない。セリスに聞きに行くべきだったかもしれないと思う。
 どうやって探るべきか……セッツァーは悩む。可愛らしい容姿のマルグリッテだが、あの瞳や立ち振る舞いを見る限り簡単に吐くような女には見えない。
「追いかけないのか?」
 ロックを見ると、早くも3杯目を煽っていた。
「…………なんのために?」
 ロックは座った目でセッツァーを見た。
「もうどうでもいいのか?」
「……考えたくねえ。確かに約束を破ったのは悪かった。でも、そんだけであそこまで怒るのか? 俺をボコって文無しにして。俺にどーしろってんだよ。……本当は、プロポーズしようと思って指輪まで用意してたんだぜ? もう自分自身が馬鹿みたいでどうでもいい」
「──────」
 セッツァーは唸りたいのを我慢した。なんだかこうやって聞いていると、ロックも哀れに思える。セリスは妊娠もあって不安定な精神状態だったのだろう。不運な偶然が重なったのか……。
「俺が頂いてもいいんだな?」
 勿論本気でないが、ロックを試そうと真面目な顔で言った時だった。
「ビール! ピッチャー!」
 新しく入ってきた客が叫んだ。その声にギョッとして振り返る。どう見ても70歳近いじーさんがピッチャー!?
「大丈夫か? あのじーさん」
 セッツァーは思わず呟く。
 カウンターに立つバロンが、
「先生、医者の不養生なんて言葉はあんたには似合わねーよ。ピッチャーはやめようぜ」
 呆れたように言った。どうやら医者らしい。言われてみればそんな風格がある。
「いいや! ピッチャーだ! 酒でも飲まんとやってられん!」
 老医師の余りの大声に、ロックもセッツァーもいつの間にか話を中断してそちらに注目していた。
「おいおい、どうしたんだよ。先生らしくねーじゃねーか」
 バロンが苦笑いで言うと、
「どうしたもこうしたもない! 今の若い者は私の言うことなど全く耳にいれん。昨日も今日もそんな患者が来おった!」
 老医師は相当興奮している。大丈夫だろうか。
「この前なんかもっとひどい! 私は旅などやめるべきだと忠告したんだ。なのに、様子が辺だったから心配になって宿を尋ねてみれば出ていったと言われた。子供だけでなく母体の命だって危険なんだぞ! 全くけしからん!」
 老医師の叫びに、
「そりゃよくねーなあ」
 ロックが何気なく呟くと、何故かセッツァーにぎろりと睨まれた。
「なあ、じいさん。そりゃいつ頃だ?」
 セッツァーが老医師に声をかける。老医師は話を聞いてもらえた事が嬉しいらしく、
「1ヶ月ほど前だ」
 と答えてくれた。
 何故そんな質問をしたのかと、ロックは怪訝そうにセッツァーを見る。彼は更に尋ねた。
「どこの宿だ?」
「ん? “真昼の月”という宿だ。この酒場からも近いだろう」
 老医師の返事にロックの顔が強張った。
 1ヶ月前の“真昼の月”って宿? ロックが泊まっていた宿ではないか。
「なんて名前だった?」
 セッツァーはまるでわかっているかのように、問うた。
「む……。なんだったか……。確か、なんとかシェールとかいったはず……」
 首を捻った老医師に、ロックはガタン! と椅子を鳴らして立ち上がった。顔から血の気が引いている。
「セリス・シェールだ。違うか?」
 セッツァーが確認するように言った。
「おお、そうだ。背の高い金髪の美人だった。何だ? 知っているのか? まさか……」
 老医師は剣呑な目つきでセッツァーを診た。セッツァーは口元を歪め、
「俺じゃあない」
 とロックを見た。ロックはテーブルについた拳を震わせ、苦々しい表情で俯いた。
「セッツァー、あんた知ってたんだな?」
「まあな。お前の態度次第で黙っているか言うか決めるつもりだったんだが」
 肩をすくめたセッツァーに、ロックは顔を上げて尋ねた。
「無事、なんだな?」
「俺からは余計なことは言わない。自分で確かめろ。モブリズにいる」
「…………ちくしょう!」
 ロックは呻いて歯を食いしばった。セッツァーが問答無用で殴った理由がわかった。
「お前が父親なのか?」
 老医師が苦い顔でロックを見た。ロックが答えないから、セッツァーが代わりに、
「セリスは黙って出ていったんだよ。こいつは何も知らなかったんだ」
 片肩をすくめた。
 ロックはバロンに歩み寄ると、
「悪い、明日から手伝えねえ」
 そう告げた。バロンはわかっているというように頷き、
「ああ。……ちょっと待ってろ」
 厨房の奥から何かを取り出してきた。
「そのセリスが俺に預けて行ったんだ。お前が俺に宿代を借りるだろうから、それを返し終えたら渡せってな」
 小袋を受け取って中身を確認する。セリスが盗っていったと思っていた金がそっくりそのままあった。
「いつ渡そうか悩んでたんだ」
 バロンは肩をすくめた。
「すまねえ……」
 唇を噛みしめたロックの肩をばんばん叩き、
「おら! さっさと行って来い!」
 激を飛ばした。
 ロックは頷くと、店の2階に荷物を取りに行く。まとめておいて正解だ。
 店に戻るとセッツァーが入り口で腕組みをしている。早くしろと言わんばかりの表情で。
「バロン、また必ず来る」
 力強く言って紙幣を何枚かカウンターに置いた。するとバロンは、
「今日はツケとく。次来たときに払え」
 そう言って金を突っ返した。必ず寄れということだろう。
「……わかった」
 頷くとロックはアスタリスクを後にした。

 久々に飛空艇に乗り込んだ。
「飛ばすぞ。休んでろ」
 そう言ってくれたセッツァーの言葉に甘えることにする。
 だが、広い部屋にぽつんと一人になり、込み上げてくるものを堪えられなくなった。だが決して泣かなかった。
 セリスが受けた辛さを考えれば、自分に泣く資格などないと思ったから。
 何故、気付いてやれなかったのだろう。何故、もっと気遣ってやれなかったのだろう。
 後悔しないように生きると、レイチェルに誓ったのに……。
 不甲斐なさすぎる。
 自分はこの1ヶ月何をしていた? 何もしていなかった……。
 彼女に会いに行ったところでなんと言えばいいのだろう。
 モブリズまでは3時間ほど。
 彼女になんて謝ればいいのか、そればかりを延々悩んでいた。

 

■あとがき■

 なんかいっつも同じような展開な気がしてきました。申し訳ありません。精進したいけど、こればっかりは想像力の無さ。どうやって身に着けるものなんでしょう? わからない……。 (03.10.03)
 ちなみに、次で完結じゃない予定。まだもう少し、いらいらするかもしれませんが、おつきあい下さい。

 文章補正を行いました。 (05.11.03)

4.心の迷路

「セリスお姉ちゃん! 早く!」
 ラスカという少女が飛び跳ねながら手を振る。
 セリスは微笑んで、ラスカが立つ花壇へ向かった。
「ねえ、これラスカが植えたんだよ」
 まだ10歳にもならない少女は、ピンクのチューリップを指してはしゃぐ。無邪気な笑顔に口元を綻ばせ、
「綺麗ね。お日様を見てる」
 そうセリスが言うと、ラスカは破顔した。
「ラスカ、ピンクが一番好き!」
 そんな姿を、少し離れた所から見ていたティナは、思わず笑みを浮かべる。
「セリス、少しは元気になったみたいね」
「一見、そう見えるけど、どうだろうね……」
 ティナに頼まれ、犬小屋の修理をしていたアルフレッドは草色の瞳を翳らせる。
「……そんなすぐに完全に立ち直るなんて無理よ。セリスは長い間、ロックのことだけを想っていたもの。それはそれは一途に」
 アルフレッドの想いなど知る由もないティナは首を横に振る。
「そんなに、いい男なのかい? そのロックって奴は」
 聞かれてティナは困ってしまった。“いい男”がどういう基準でいうものなのかわからない。とりあえず、自分が見て感じてきたことを言った。
「心に負った傷を乗り越えようと前に進むことのできる人。弱い者を放っておけない。実直で嘘がつけなくて、自分の弱さを認めて強くあろうとするような人だったわ」
「……そりゃ、随分、いい男だな」
 アルフレッドは苦笑いする。ティナは首を傾げ、
「そう? ……たまに前しか見えなくなったりするし、不器用なところもあったわ。セリスはずっと辛い想いをしていたの。ロックは真面目すぎて、誠実すぎて、過去にケリをつけないとセリスと向かい合えなかったのね」
 今言ったことの半分はエドガーの受け売りだ。
「ロックって、セリスにとって外の世界で始めて触れ合った人なのよ。外へ連れだしてくれた人。命の恩人でもあるの。帝国しか知らなかったセリスにとって、ロックって全てだったのね」
 感慨深く呟くティナに、アルフレッドはこっそり嘆息する。
「私もセリスと似たような立場だったけど、その頃は、何もかもが自分……の別の所で流れていたように感じてた。よくわからなかったわ。ロックが優しくしてくれるのも、ただ不思議に思って眺めてた。同じように接せられても、感じることって違うから不思議ね。でも私も好きだと思うもの。勿論、みんな」
 ティナは優しく笑う。仲間達は離れ離れになった今でも大好きだ。全員を家族のように思っている。
 できれば、ロックとセリスには仲直りして欲しかった。
 ロックが傍にいる時のセリスは、本当に幸せそうだった。それは勿論、ロックだってそうだ。いつ変わってしまったのだろう? 信じられないなんて。
「前途多難か……」
 アルフレッドが何故かそう呟いたが、ティナにはよくわからなかった。


 モブリズへ来て、もうすぐ一ヶ月になろうとしていた。
 子供達が寝静まった後、ティナとセリスは二人でフレッシュハーブティーを飲んでいた。スヴェラが栽培したものだ。
「無理してない?」
 ティナが尋ねると、セリスは苦笑いで、
「心配しすぎよ。適度に動いた方がいいって、チャーリーさんも言ってたじゃない」
 そう答えた。ティナが言ったのは身体のことじゃなくて心のことだったのだが……。セリスはわかっていてはぐらかしたのか……。
「ねえ……」
 ティナは不意に真面目な表情になってセリスを見た。
「本当にいいの?」
「え?」
 セリスはキョトンとする。ティナはじっとセリスの目を見て、
「ロックのこと。本当に、もういいの?」
 そう続けた。セリスは視線を落とす。
 最初に問われた後、ティナはずっと何も聞かずにいてくれた。そして、まだ聞かれたくない。
「いいも悪いも……もう終わったんだし……」
 セリスは言葉を探しながら呟く。
「セリスが一方的に終わらせたんでしょ? 確かめなくていいの?」
 存外強い口調のティナに、セリスは俯いてかぶりを振った。
「わざわざ確かめたりしたら……今度こそ私、立ち直れなくなる。この子に影響しちゃうもの。そんなことできない。このまま静かに暮らしたいの」
「セリス……」
 ティナの鮮やかな翡翠の瞳が悲しみの色に染まる。そんなことを言われたら何も言えなくなってしまう。
「もう、いいの。あの人の行動パターンから考えれば、もし何もしてないならとっくに来てるわよ。そう思わない?」
「…………」
 確かにティナもそれは思っていた。ロックは一体何をしているのか、と。
「もし私が殴ったせいで死んじゃってたらどうしよう? なんて思ったりはするけど」
 セリスはわざとふざけて言ったのだが、ティナに盛大なため息を吐かれてしまった。
「そんなにロックが信じられない?」
 ティナは真っ直ぐにセリスを見た。
「………………」
「ねえ、セリス。確かに私は恋愛なんてしたことないけど、でも、ロックはいつでもセリスのこと見てたよ。誰にでも優しい人だけど、セリスは特別だったよ。すごく大事にしてたと思う」
「…………私がレイチェルさんの代わりじゃないってどうして言える?」
 顔を上げたセリスは、泣きそうな顔で自嘲した。
「レイチェルさんは生き返らなかった。だから代わりに私を大事にしてた。私は所詮代わりなのよ? いつか代わりじゃない誰かが、彼の心に住むまでの!」
 セリスは「うっ……」と嗚咽をもらした。澄んだサファイアの瞳からぼろぼろと涙が零れる。
「でも、聞いてみないとわからないじゃない。ね?」
「あの人は否定する。自分がそんな不誠実だなんて認めない。あの人は違うって思い込んでいるかもしれない。……私だって信じたい! だけど、何を信じればいいのかわからないの」
 ティナは慰めの言葉が出てこなかった。
「いつも不安だった。ずっと……。ロックの浮気なんてきっかけでしかなかったのよ。永遠なんて確実なものが存在しないことはわかってる。でも……」
 セリスは言葉を止め、ティッシュ鼻をかむと、
「ごめん、だからロックのことはもういいの。忘れられるかなんてわからないけど、私はこの子のために生きる」
「そっか。わかった」
 ティナはそう言う以外になかった。

 

†  †  †

 

「もうすぐ到着だ」
 舵を取るセッツァーに近付くと、振り返らずに言われた。
「そう、か……」
「浮かねーなあ。当然か。大体、浮気したなんて思われるようなことすんのがいけねーんだぞ」
 呆れたようなセッツァーに対し、
「はあ? 浮気? 誰が」
 ロックは素っ頓狂な声を上げた。
「誰って、お前以外に誰がいんだよ。お前が浮気したと思ってセリスはキレたんだろ?」
 どうやらそれすら知らなかったらしいロックに、セッツァーは同情の目を向けた。
「どーすりゃそんな誤解が生まれんだ? 明け方戻っただけで」
 ロックは呆然と呟く他ない。
「それだけじゃねーんじゃねーの? 何か心当たりねーのか?」
「全然! わかんねー……」
 心当たりどころか、絶対にありえない。が、余計に弁解のしようがないではないか。
 ロックは更にどうしていいのかわらかなかった。


 潮騒が満ちる海岸に、二人と一匹の足跡が続いている。
 ウッドを遊ばせるアルフレッドと連れだってセリスが歩いていた。
 今日は月に一度の誕生日会の日だ。30人程の孤児全員の誕生会を毎回できるわけではない。そのため、月に一度まとめて誕生日会を行っていた。
 そのせいで昼間、ウッドの散歩ができなかったアルフレッドは、後かたづけを終えたセリスを誘ったのだ。
「無理しているのは、僕が余計なことを言ったからか?」
 ぽつり、前を向いたまま呟いたアルフレッドに、セリスは一瞬ぽかんとしたが、
「無理なんてしてないわ。……あなたに気を遣わせちゃってるわね」
 肩をすくめ苦い笑みを返した。
「そんなのはどうでもいいよ。僕のことはどうでもいい。別に意識して気を遣ってるわけじゃない」
 そう言い切られてしまうと、セリスは何を言っていいのかわからない。
「貴女は自分が無理していることにさえ、気付けない。わかってないだろ?」
「…………無理しているつもりなんて本当にないの。普通に振る舞ってると思うわ」
 困ったように答えたセリスに、アルフレッドは厳しく突っ込む。
「それが無理してるって言うんだよ。思って普通に振る舞うなんてそれこそ不自然だ」
「……そう、かもしれないわね」
 セリスは力無く笑みをこぼした。ではどうすれば良いと言うのだろう。
 諦めがちな表情で小首を傾げるセリスを振り返り、アルフレッドは失笑した。
「すまない。僕が辛そうな君を見ているのが辛いだけだな、きっと。それこそエゴだ。本当にすまない」
「私こそ。いつまでも心配かけてちゃだめよね」
 セリスははにかんで自分を励ました。そして再び歩き出す。アルフレッドを追い越すと、彼が言った。
「もし、僕の気持ちを気にしてるなら、あれは忘れてくれてもいい」
「え?」
 セリスはきょとんとアルフレッドを振り返った。
「ただでさえ苦しんでいる君を、更に苦しませているのなら……」
「そんなことはないわ。……ただ……」
 言いかけて躊躇したセリスを、「ただ?」アルフレッドは促す。
「あなたの気持ちに答えられる自信がない。だから優しくされると心苦しいの。なんだかずるい気がして……」
 小さく言ったセリスが俯くと、アルフレッドは困ったように苦い笑みを浮かべて頭をかいた。
「君は本当に清廉潔癖なんだな。もっとずるくなっていいのに」
 そう言ったアルフレッドは、ウッドのリードを手放すと、セリスの前に立った。ウッドは夜の砂浜を駆けていく。
 セリスが不思議そうに頭一つ高いアルフレッドを見上げると、彼は照れたように笑い、
「もう少し、警戒してもいいんじゃないか?」
 そう言った。かと思うと、セリスは彼の腕に引き込まれていて……余りに突然のことで、頭の中が真っ白になる。
「アル、フ……?」
 彼の広い胸に顔を埋める形になり、どうしていいかわからずセリスは縮こまった。
「見て、いられないんだ。痛々しすぎて」
 アルフレッドの言葉は耳を素通りしていく。
 ロック以外の人に抱きしめられたことなどなかった。だけど……心地よくて、「流されてしまえれば楽なのに」そんな想いが沸き上がる。同時に、虚しさと悲しさが平行して存在していた。
 アルフレッドはそっとセリスの頭に触れる。優しい仕草で撫でる指が切ない程に心地よい。なのに、「これが……ロックだったら……」そんなことを願っている自分に気付き、優しいアルフレッドに対する罪悪感が膨れあがった。
 耐えられなくなったセリスがそっと身をはがすと、アルフレッドは寂しそうな顔をしたが、あっさりと彼女を解放した。
「私はあたなたに抱きしめてもらう資格なんてないわ」
 その腕に甘えるのは、恐ろしい程に心地よい。だが、そこで別の人を想ってしまうのは辛かった。ロックを忘れられないのだど自覚してしまうから。
「…………君が、ずるい女になんてなれるはずがないな…………」
 気まずい沈黙が降りたその時、低い羽音が辺りに響いた。
 飛空艇だ。そしてそれを所持しているのは世界に一人だけ。セリスのかつての仲間、セッツァーだ。
「お節介、焼きに来たのかしら」
 セリスはため息混じりに呟いた。心配してくれるのは有り難いが、過剰になるとそれは重荷だ。
「戻らなくていいのか?」
 アルフレッドに言われたが、とても自分から会いたいとは思えなかった。余計な話はしたくないのだ。できれば放っておいて欲しい。色々言われるのはわかっている。それを考えると憂鬱だった。
 力無く首を横に振ったセリスに、アルフレッドは、
「仕方がないなあ」
 と呆れたように言葉を漏らした。途端、セリスは己の余りの子供っぽさが恥ずかしくなる。
「逃げてちゃいけないのはわかってるんだ」
 言い訳を、ぽつり、呟いた。
「別に逃げたっていいんだよ。自分を追いつめるよりはずっといい」
 アルフレッドの優しい瞳に見つめられ、甘えてしまえたらどんなにいいだろうと思う。きっとアルフレッドはセリスを傷付けない。ロック以上に優しく愛してくれるだろう。
 そこには、切なく甘く響く何かが確かにあるのに、それでも違うと感じている。
 セリスが心の底から焦がれるのは、切望するのは、もっと熱いものだ。自分の凍えた心を溶かし、ぽっかり空いた穴を埋めてくれる何か。
 本当は、自分が何を求めているのかわかっていた。それは決して手に入らないものだということも。
「手に入らないからこそ、渇望するのかもしれないな……」
 自嘲気味なアルフレッドの言葉に、セリスは心を見透かされたのかと思い、顔を歪めた。
「今も昔も、君は、遠い……」
 呟いたアルフレッドの手が伸びる。セリスは動けなかった。拒否することも、許容することもできなかった。
 再び彼の腕に抱きしめられる。先程のように柔らかい抱擁ではなく、きつく抱きしめられ、セリスは心まで窒息してしまうかと錯覚する。
「あの頃、行動していたなら……今頃、僕は君の隣にいられなんだろうか───」
 アルフレッドは一人ごちた。
「本当は、君を連れ去ってしまえればいいんだろうな」
 その言葉の真意を測りかねたセリスは、気付くと唇を重ねられていた。
「…………!」
 咄嗟のことで、ただ、呆然としているしかできない。
 奪うような口づけはほんの一瞬。
 セリスを解放したアルフレッドは、彼女を見ずに、彼女を通り越した向こうを見ていた。苦渋の面で。
「君を渡したくないけどね」
 そう呟き、口元を歪める。
「……?」
 セリスは訝しげな顔で振り返り、
「あ…………」
 顔を強ばらせた。
「……ロッ……ク……」
 膝が震えるのが止められない。
「話がある」
 無表情に言ったのは、ロックだった。

 

■あとがき■

 相変わらず話が全然、進んでいません。次で最後の予定だけど……終わるかしら?
 なんだかいつもと違う展開。同じような話にならないよう努力しているんですが、本当に難しいです。
 なんだかアルフレッドがやたらと絡んでいるし……。何が書きたかったのかよくわからなくなって来ました。要するに、喧嘩が元でこじれた二人の様子を書きたかったんでしょうね(って自分で書いてることだろ)。
 仲直りは……どうやってしましょう? (03.10.10)
 文章補正を行いました。 (05.11.03)

5.道標

 モブリズに到着したのは22時過ぎだった。
 緊張からくる動悸を無視して、飛空艇から降りる。覚悟を決めて町へ入ると、飛空艇に気付いたティナが丁度出てきたところだった。
「ロック……」
 ティナは決して晴れやかとは言えぬ表情をしている。
「セリスは?」
 開口一番そう尋ねた。
「30分位前にアルフさんって、えと、セリスの将軍時代に副将軍していた人が偶然モブリズにいてね、その人と犬の散歩に行ってまだ帰ってないの。海岸沿いにいると思うけど……」
 なんとなくセリスに対するアルフレッドの空気の違いに気付き始めていたティナは、複雑そうに呟く。
「子供は……無事なのか?」
 ロックは絞り出すように問う。答えを聞くのは恐いが、自分には怯える資格はない。
「ええ。最初は危なかったの。でももう大丈夫よ」
 はにかんだティナに、ロックはどっと息を吐き出した。
「ねえ、本当に浮気したの?」
 ティナに聞かれ、ロックは心底嫌そうな顔をした。疑われるような奴なのだろうか、と。
「記憶にねー。つーか、ありえねえ」
「……だよね」
 ティナも逆にホッとしたようだ。
「中でセリスが帰るの待つ? お茶でも入れるけど」
「いや……行ってみるよ」
 彼女に会うのは恐いけれど、じっと待っていることはできなかった。
 しかし、海岸でロックが目にしたのは……。
 細い月明かりの下、固く抱き合う男女だった。
 正確には、男が一方的に女を抱きしめていた。女は……間違いなくセリスだ。
 ロックに気付いた男──彼がアルフだろう──は、剣呑に目を細めロックを睨み付けると、おもむろにセリスに口づけた。
 さすがにギョッとして声を上げそうになったが、何を言えばいいのかわからなかった。セリスがどういうつもりなのかわからないから、躊躇したのだ。
 口づけは一瞬で、アルフレッドは何か囁くと彼女を離した。
 ロックはどうしようもないやるせなさを飲み下し、立ち尽くしていた。
 今の自分に何かを言える資格があるのか───。
 今すぐあの男をぶん殴りたい衝動が込み上げても、それを噛みしめるしかない。
 ロックは今、“セリスの恋人”とは言えない。怒ることができる立場ではないのだ。
 必死で歯を食いしばり怒りを堪えていると、突然セリスが振り返った。
 体中に入っていた力がフッと抜け、ロックは無表情に変わる。
 何も写さぬようなロックの濃紺と視線が絡まると、セリスは身体を震わせた。
「───話がある」
 ロックはやっとのことでそう言った。
 例えセリスの心があの男のものになっていたとしても、既に遅くとも、何もせずに帰ることはできなかった。
 セリスは瞳を揺るがせ困惑の表情で背後に立つアルフレッドを振り返った。縋るような表情で……。
 アルフレッドは首を横に振り、
「今、逃げたら、君は一生後悔するよ」
 諦めの滲んだ声でそう告げた。
「ウッド!」
 愛犬を呼び寄せると、リードを繋ぎ、
「瞬間的な苦しみより、長い後悔の方が辛い」
 儚げに笑うと、
「ごゆっくり」
 ロックにそう言って、町の方へ戻って行った。
 アルフレッドの姿が見えなくなっても、セリスは俯いたまま固まっていた。
 苛立ちが募っていたロックだが、本来の目的は“謝罪”だ。気持ちを切り替えて、セリスに近付く。
 砂を擦る足音に、セリスは更に身体を縮こませた。
 ロックは1メートル程手前で足を止めると、
「すまなかった」
 きっちり頭を下げた。
 セリスは何も言わない。ただ怯え震えているだけだ。
 返事がないから仕方なく顔を上げたロックは、次になんと言葉を続けていいか分からない。飛空艇の中でさんざん考えたのだが、台詞はすっぽり抜けていた。
 セリスは何かを言おうとして口を開くがやはり言葉がでないらしく、唇をわななかせてロックを見つめていたが、ゆっくりと言葉を発した。
「……子供のことを、知ったのね……」
 そう言った彼女から肩の力が抜ける。
「すまない。気付けなかった」
 それに関してロックは、謝ることしかできなかった。だがセリスは悲痛に顔を歪め、
「いいのよ。私が言わなかったんだから。……責任を感じる必要もない」
 吐き出すように言って自嘲した。
「俺は責任なんか……!」
 言いかけたロックの言葉を、セリスは遮る。
「いいの。本当はわかってたの。謝る必要もないから」
 目を伏せ、脱力したように言った。
「………………」
 セリスは話を聞く気がないように見える。ロックはため息をついてから深呼吸をし、
「俺は浮気なんてしてないからな」
 きっぱりと言った。
「いくつものキスマーク着けて帰ってきて?」
 セリスは鼻で笑ってそれを一蹴する。しかしロックは眉根を寄せて思い切り変な声を上げた。
「はあ?」
「酔ってて覚えてない? ……でもそれももうどうでもいいの。言ったでしょ。あなたは責任をとる必要はないの」
 強気な言葉と裏腹に、彼女の膝が震えている。
「責任て言い方やめろ。俺はそんな風に考えてない」
 聞く耳を持たないセリスに痺れを切らして、ロックは苛立ちを隠さずに言い切った。
「わかってるわ。あなたはそんな風に考えない。いいえ、認めない」
 唇を歪めるセリスに、ロックは訝しげな表情を浮かべる。
「あなたは誠実でない自分なんてありえないと決めているから、自分の心までねじ曲げられるんだわ」
「なっ……!」
 ロックは唖然とした。彼女は何を言っているのか。
「いいのよ。私を放っておけないんでしょう? いいの。そんな傲慢さはいらないの。もう、私は大丈夫だから」
「………………あの男がいるからか?」
 ロックは半眼で尋ねた。
 放っておけない? 傲慢? そんなに奢ってなどいない。自分はそれほど強くもないし、万能でもない。そんな安っぽい同情だけで、これほど痛切に彼女を求めるものか。
「アルフレッドのこと? 別に彼は関係ないわ。昔の部下ってだけ」
「…………俺は……お前が好きだ」
 ロックは俯きがちに呟いて顔を上げた。セリスの表情が強張る。
「あなたは勘違いしてるのよ。レイチェルさんが生き返らなかったから、だから、私といる」
「なんでそうなるんだ……!」
「じゃあ彼女が生き返ったら、どうした?」
 その問いに、ロックは答えられなかった。
 レイチェルが生き返ったら、自分はどうするつもりだったのだろう?
「ほらね? レイチェルさんが生き返らなかったから、また、私を代わりにしてた」
「違う……!」
 代わりなどと思ったことは一度もない。
「私のことが好き? いつから?」
 セリスは挑戦的にロックを見る。
「いつからって…………明確にはわかんねーよ。ティナを助けにゾゾに行った辺りか……? いや、もっと前からだったんだろうな。自覚したのがその辺り」
「ふ~ん。それで、レイチェルさんを生き返らせようとしてたの? 私を好きで?」
「それは……」
「それで生き返ったらどうするつもりだったかも考えてなかったの? 答えられないの?」
「………………」
「あなたは矛盾しすぎてるのよ。その何を信じろって?」
 ロックは何も答えられなかった。答えを持っていない。
「それでも! 今、お前のことが好きだっていうのは真実だ」
 ロックは必死に訴えた。しかし彼女は冷たい視線を寄越すだけだった。
「どうして今更そんなことを言うの? 一度も言わなかったじゃない」
 あえて言う必要などないと思っていたからだ。心が通じ合っていると思っていたからだ。
「……どうすりゃわかるんだ! どうすれば信じてくれんだよ!」
 ロックの悲痛な叫びに、セリスは表情を歪め、
「どうしてもっと前に信じさせてくれなかったの?」
 泣きそうな顔で弱々しく言った。そんな彼女に、ロックの胸がひどく疼く。
「ずっと信じたいと思っていたのに、まだ信じられるうちに、どうして何も言ってくれなかったの!?」
 彼女は涙を落としていた。ぽろぽろと、透明な雫が砂浜に染みを作る。
「あなたを……何も信じられない……」
 嘆きむせぶセリスに、ロックは手を伸ばした。だが、
「触らないで!」
 激しく振り払われる。
「二度と、私の前に現れないで……!」
 セリスの言葉が、心に突き刺さった。
 後悔や悲しみよりも、巨大な虚無感に襲われ、ロックはとぼとぼと海岸を後にする他なかった。

 

†  †  †

 

 一人で戻ってきたロックに、ティナは不安そうに瞳を揺るがせた。
「あの……セリス、は……?」
 小さく尋ねたティナを横目で見やり、ロックは力無く首を横に振った。
「二度と顔を見せるな、とさ」
 溜息混じりに告げると、ティナは信じられないという風にその翡翠色の瞳を見開いた。
「ああ、俺だって信じられないさ。……でもそれ以上に、セリスは俺が信じられないんだと」
「………………」
 なんていうことだろう……ロック本人でも、セリスの心の氷は溶かせなかったのだ。ティナは泣きそうな顔になっている。
「お前がんな顔する必要はねーんだよ。仕方、ねーんだ。……そういや、これ ……」
 ロックはポケットから小さな小箱を取り出した。
「直接渡そうと思って忘れてたんだ。……子供を産むのにも金がかかるだろ? 換金すりゃあ少しは足しになる」
 苦笑いを浮かべたロックは、究極に虚しいと思う。
「でも……本当にいいの? これで終わりなの?」
 食い下がるティナに、ロックは失笑した。
「仕方ないだろ? 俺を何一つ信じられないとまで言われて、俺にどうしろと?」
「…………ごめんなさい」
「だから、お前が気にすることじゃねーよ。…………セリスのこと、よろしく頼むな」
「……ええ」
 ティナが小さく頷くと、「じゃあな」と手をあげて、ロックは飛空艇に戻って行った。
 小さく嘆息したティナは家に入ると、コーヒーを飲んでいたセッツァーを見てかぶりを振った。
「ダメだったのか?」
 セッツァーは唖然としている。
「うん。セリスは、ロックのこと、信じられないんだって。……前もそう言ってた。信じたいけど、何を信じればいいのかって」
「…………馬鹿な女だ」
 セッツァーは吐き捨てた。セリス以外の誰もが、ロックの気持ちを信じて疑わないというのに。
「恋愛が初めてだからなんて言い訳にもなりゃしねえよ!」
 悔しそうに、セッツァーは口元を歪めることしかできなかった。

 

†  †  †

 

 泣き腫らした顔で帰ると、居間でティナとセッツァーがどんよりとした空気を放っていた。
「…………ただいま……」
 掠れた声で告げ、すぐに自分にあてがわれた部屋で戻ろうとしたのだが、
「まあ、座れよ」
 恐いくらいに威圧した表情のセッツァーに笑顔で言われてしまい、セリスは渋々椅子に腰掛けた。
「信じられないんだって?」
 いつも以上に皮肉そうな笑みで、セッツァーは俯いているセリスの顔を覗き込む。
「………………」
 セリスは答えない。もう疲れてしまった。
「奴ほどわかりやすい男もいないだろうに。何が、信じられない?」
「逆よ……。思いこみが激しすぎるの。あとで勘違いだと気付くタイプの人でしょ?」
 投げやりなセリスの言葉に、セッツァーは眉をひそめる。
「………………」
「レイチェルさんが戻らなかったから私といる。……永遠に彼女の代わりをするなんていやよ」
「本気でそんな風に思ってるのか?」
 セッツァーは呆れたように言った。
「だってそうでしょ? もし生き返っていたらどうしたか聞いても、ロックは答えられなかった」
 そう言われてしまうと、どうやってセリスを説得すればいいかわからない。
「その時点ではそうだったかもしれない。だけど、お前といて、お前のことを愛するようになったとどうして考えられない?」
「……オペラ座で、セッツァー、あなたがマリアを攫いに来た時、ロックは私のこと好きだって言ってくれたの。レイチェルさんの代わりと尋ねても彼は答えなかった。一度、代わりであったならそれ以上にはなれない。他の誰かを、レイチェルさんと別に好きになることはできるだろうけど……。私は代わり以上にはなれない。……もしかしたら、ロックにとっては一生それでも幸せかもしれない。レイチェルさんを死なせた罪の意識を、私といることであがなえているような気がするかもしれない。でも、私は……」
 声を震わせて俯いたセリスに、セッツァーは盛大な溜息を吐き出した。
「浮気したから信用できねーのか?」
「……それもあるわね。してないって言うけど……あのキスマークを見たら、誰でも同じこと思うわよ」
「キスマーク?」
 セッツァーはぴくりと眉を上げる。
「マルグリッテさんが、ベルト、バンダナ、財布を忘れ物って持ってきて、さらにシャツに彼女のリップ。それから、シャツの下にも!」
 セリスは、思い出して腹が立ってきた。ちょっと八つ当たり気味な気分だ。
「……でもしてねーと思うぜ。さすがに覚えてなくてもしてたら自分でなんとなくわかるさ」
「………………」
 そんなことを言われても信用できはしない。
「じゃあ、あのキスマークは何よ」
「……知らん!」
「………………でも、もう、どうでもいいわ」
 セリスは立ち上がってその場を辞そうとしたのだが、
「あ、セリス!」
 今度は黙って二人を見ていたティナに呼び止められた。
「これ……」
 彼女が差し出したビロードに包まれた小箱。
「ロックが、換金して子供を生む時の金にしろって……」
 ティナの言葉に、セリスはそれを受け取り蓋を上げる。
「………………手切れ金?」
 強がってみたものの、小箱を持つ手が震えていた。
 部屋を照らすランプの炎を受けて輝くダイヤモンドと、それに添えられたセリスの瞳の色の宝石タンザナイト。それにプラチナを使っている。現在プラチナが採取できる場所などないので、相当高価なものだ。
「ベクタにいる一週間で、それを頼んで、お前にプロポーズするつもりだったんだぞ、ロックは」
 セッツァーの言葉に顔を上げると、真っ直ぐな視線に射抜かれて、セリスは氷色の瞳を揺るがせた。
 鼓動が早くなる。頭の中で警鐘が鳴っていた。
「真偽は別にして浮気の1度ぐらい許せ! レイチェルの代わりだと言うなら、彼女を追い越してやると思えばいいじゃねーか!」
「……無理、よ……」
 弱々しい声で呟いたセリスは、すとん、と再び椅子に腰を下ろした。
「何故!?」
「……恐いもの」
「あいつがそんな中途半端な気持ちでプロポーズなんてすると思うのか?」
 セッツァーは必死に怒鳴った。どうして自分がここまで世話を焼かねばならないのかと思いながらも、放ってはおけなかった。
「中途半端な気持ちでレイチェルさんを生き返らせようとまでしたのよ?」
 セリスはそれでも納得しない。
「………………」
 呆れ顔になって半眼でセリスを見つめるセッツァーを無視し、ティナに向かって言った。
「これ、貰えないわ」
「でも……」
 小箱を差し出すセリスに、ティナは躊躇する。ティナが受け取ったってロックに返すなんて無理だ。
「返すなら自分で返すべきだぜ」
 セッツァーに冷たく言い放たれ、セリスは一瞬身体を強張らせる。
「それは筋だろう? 知らん顔で捨てるっつー手もあるけどな。それはさすがにできねーよな?」
「…………でも……」
 セリスは躊躇した。会いたくないのだ。会いたくない。本当は彼が好きなのだから。全てを信じてあの胸に飛び込めたら、と思っている。ただ、単純なその行為がひどく恐い。信じた後にもし捨てられたら更に辛いと考えてしまう。
「自分で返しに行け! あいつの気持ちを踏みにじってるんだから、それぐらいは礼儀だ」
「踏みにじってるって……」
 そんなつもりなどない。それ以前に彼の気持ち自体を否定しているのだから、当然だろう。
「いいから行け!」
 テーブルを叩いて立ち上がったセッツァーはつかつかとセリスに歩み寄ると、無理矢理彼女の腕を取った。
「痛い!」
 セリスは抵抗したが、彼は有無を言わさず椅子から引きずり下ろし、ドアから放り出した。
「行ってこい」
 そう言って勢いよくドアを閉める。
「……セッツァー……セリスのこと好きじゃなかったの?」
 非情な態度でセリスを追いだしたセッツァーに、ティナが呟く。
「俺はいつまでも引きずるような男じゃねえよ。ここでセリスを口説いたら、ダリルに罵倒されちまう」
 いつものニヒルな笑みを浮かべ、余裕たっぷりに答えた。

 

†  †  †

 

 肌寒い夜風の吹く野外に放り出されてしまったセリスは、溜息混じりに歩き始めた。
 戻ってもドアは開けてもらえないだろう。指輪を返すだけだ。返してそのまますぐ帰ればいい。自分に言い聞かせる。
 だが緊張は解けず、身体は強張り、心拍数は上がる一方だ。
 自分から顔を見せるなんて言ったし、怒鳴られるかもしれない。
 いっそ嫌いになれたらどんなにいいだろう? だけど不可能だとわかっていた。信じられなくとも、彼が好きなのだ。理由などなく。
 町の出口から5分ほどの所に停められた飛空艇の前に立って、生唾を飲み込む。
 大丈夫。大丈夫。何度も自分に言い聞かせ、中に入った。
 懐かしい。今にも仲間達の騒がしい声が聞こえてきそうだ。実際は恐いくらいの静寂に包まれていたが。
 ロックの姿を探し、客室の前を歩いていると、
「くそっ!」
 何かを叩く音と共に憤慨する声がした。
 小さな嗚咽が響いている。
(ロック……?)
 心臓を鷲掴みにされたかと思った。苦しくて、切なくて、このまま息が止まってしまうかと思う。
 すすり泣くような悲しい声は、一番奥の部屋から聞こえていた。
「なんで……!」
 ロックが叫んでいる。
 細く開いたドアから、彼の姿が見えた。
 ベッドに腰掛け膝に両肘をつき頭を抱えむせび泣いていた。
 何故、そんなに泣くのだろう?
 セリスまで泣きたくなってしまう。泣かないでほしい。悲しまないでほしい。ロックが心を痛める必要などないはずなのに……!
 呆然として、その手から指輪の入った小箱が転げ落ちた。
   カタン……
 その音に、ロックがギョッとして顔を上げた。
 涙に濡れた頬。悲痛な表情。
 セリスは顔を歪めて固まった。
 勿論、ロックも固まっている。そして、
「……最悪だ……」
 一言漏らした。その言葉にセリスは身体を震わせた。
 彼がそう言うのも当然だろう。大泣きしてるところを見られて良いと思う男はいない。
「……何しに、来た」
 掠れた声で問われ、セリスは言葉に詰まった。
 身体が動かない。声が出ない。指輪を返しに来たと一言そう告げればいいだけなのに、指一本自由に動かせなかった。
「俺を笑いに来たのか? 愚かだと。哀れだと」
 絞り出すように言われ、セリスはやっとのことで首を横に振った。
 そんなつもりはない。そうじゃないのだ。
「あなたが、泣く、必要なんてないじゃない」
 必死に紡いだ声は震えていた。足下から崩れ落ちてしまいそうだった。
「うるせえ! 俺が泣こうが俺の勝手だろうが!」
 ロックの怒号に、セリスはびくりと身体を震わす。
「……だって……どうしてあなたが泣く必要が…………」
「アホか。俺だって女にフラれりゃ悲しいんだよ! 本当、馬鹿じゃねーの」
 フラれたって……そう、なるのだろうか。
「悲しい、の?」
 呆然と尋ねるセリスに、ロックは変な顔をする。頭に巻いていたバンダナをむしって涙を拭くと、
「だから! 俺はお前が好きなんだぞ! 信じてもらえない。二度と顔を見せるなとか言われて悲しくねーわけねーだろ!」
 思い切り怒鳴った。涙はストレス物質を体外に出すためのものだ。それが途中で中断されたから苛立ちへと変わっているのだろう。
「だって……だったら……どうして…………」
「あ?」
 ロックは不機嫌そうにセリスを見やる。今までに向けられたことのない冷たい視線に、セリスは怯えたような表情で、
「あんな…………」
「なんだ? さっき言ってたキスマークのことか? 知らねーっつーの! 絶対有り得ねえ!」
 ロックはきっぱりすっぱりさっぱり断言する。
「なんでそんな風に言えるの?」
「……お前以外の女には勃たない」
 ロックの言ったことが一瞬理解できず、
「……え?」
 ぽかんとした。
「他の女には勃たないっつってんだよ!」
 もう一度言われ、やっと頭の回転がついていき、セリスはかあっと頬を赤らめた。
「そ、そんなの……試したの?」
「試すかっ! でもそうなんだからしょーがねーだろ。セリスにしか欲情しねーんだから」
 すごい口説き文句だとセリスは思う。究極。これを言われて落ちない女はいないのではないか。
「……なんでわかるのよ……」
 急に心細げな表情になったセリスを、おや、とロックは思う。
「知らん。……お前しか目に入らないから。別に意図してるわけじゃねーし」
「…………本当、なの?」
 請うような視線を向けられ、ロックは苦笑いを零した。どうやら信じてもらえるかもしれない。
「そんな恥ずかしい嘘言わねー。据え膳食わぬは恥ってぐらいだからな。普通の男は言いたくないだろうな。俺は気にしないけど」
 一人の女以外勃たないなんて、セッツァーやエドガーは絶対に言わないだろう。口が裂けても。そんなことないだろうし。
「信じる気になったか?」
 尋ねたけれど、セリスは不安そうに瞳を揺るがせるだけで、両手を胸の前で組み、唇をわななかせていた。何か言おうとしているみたいだが、言葉にならないのだろう。
 ロックが呆れ顔で立ち上がると、彼女はようやく言った。
「本当は、信じたいの……」
 震える小さな声に、ロックは思わず笑みを零す。可愛いと、愛しいと感じてしまうのは、惚れた弱みだ。
「でも、恐い」
 伏せられた長い睫毛が瞬くと、涙が零れる。
「……悪かった。その、どのタイミングで言っていいかわらかなかったんだ。改めて好きだって言うのは、俺でもなかなか、な」
 セリスの目の前まで歩いてきたロックは、手を伸ばして彼女を引き寄せた。
 途端、セリスの瞳から一気に涙が溢れ出る。
「信じたいの。あなたを信じたい……」
 必死に呟くセリスを力強く抱きしめて、ロックは囁いた。
「一生かけて、信じさせてやる」
 泣きながら頷く彼女に唇を寄せ、そっと涙をすくい取る。
「俺には、お前だけだ」
 小さく嗚咽を漏らす桜色の唇を優しく塞いだ。
 1ヶ月強ぶりの口づけ。
 信じさせてやりたくて。どれだけ深い想いかを、どれだけ彼女を求めているのかを、繰り返す口づけに託す。
 彼女の吐息を閉じこめて、その唇を貪った。どん欲に。どんなに奪っても足りないと。
 熱い唇が何度も重ねられ、柔らかい舌が絡まり、互いの唾液が交わると、セリスは深い所から自分を閉ざしていた氷が溶けていくのを感じていた。
 自分自身が蜜になって溶けていってしまうと錯覚するほどに甘い口づけ。
「俺の全ては、お前のものだよ」
 そう告げたロックは、今までのどんな時より優しく甘い顔をしていた。

 

†  †  †

 

「戻って、来ないね」
 頬杖をついたティナが呟く。
「来ないだろう、そりゃ」
「…………うまくいったってこと?」
「うまくいってくれなきゃ困るだろう」
 セッツァーは元よりそのつもりだったようだ。
「……人騒がせだね」
 溜息混じりに肩をすくめたティナに、
「まあな。いいんじゃねーの? 波瀾万丈で」
 そう言ったセッツァーは、何故か大笑いをした。

 

・ fin ・

 

■あとがき■

 完結!です。いっつも同じような話になるので、たまにはセリスから折れてみました。(でも結局ロックが折れてることになるのかしら?)いや~、どうやったら仲直りできるのか自分でも困りました。安易に仲直りしちゃったら意味ないしね。ロック情けなさ過ぎ? 許してください。感受性豊かで直情型なので、ね。
 これをもって、アオゥルさんに捧げさせて頂きます。リクに答えきれた自信はありませんが(いつもそうですね)、頑張りました! 少ししたら次のリクもお送りしますんで、ちょっと待ってて下さいね(申請順に書くので)
 なんか長いですね。下書きなしで書いているので、長さを同じぐらいにとかできませんでした。いつも、小さなノートに何ページ分と計ってるので。最後の口説き文句は言わせたかったんです。究極の口説き文句。私的に素晴らしい台詞なんですが、“下品”と思った方、お許し下さい。苦情はアオゥルさんからしか受けませんけど。アオゥルさん、お許し下さい。ロックって率直な人だから……だ、だめ? セリスを籠絡させるには、あの台詞しか思いつかなかった……。
 いつも思いますが、画像がうまく表示されないことがあります。×になってるわけじゃないのに。リロードすれば表示されるんですけどね。コピーライトやラインはまだいいけど、タイトルとか表示されないと困りますよね。何故でしょう? それともうちのパソコンだけ? うまく表示されない方いたら、ついででいいので掲示板に書いて下さい。
 TIMEと重なった話にならないようにと思っていても、レイチェルに拘ることになってしまいました。どうしてもね。ロクセリはそれが一番の焦点だし。許してください。もっとうまく書けるようになればいいんですが……練習あるのみなのに、書けば書くほど似たような話に…… (03.10.13)
 文章補正を行いました。 (05.11.03)

【この頁で使用させて頂いた素材サイト様】 ClipArt:Silverry moon light

Original Characters

チャーリー ニケア出身。ED後、モブリズに住む薬師。子供が出来ない夫婦で孤児院の世話を手伝っている。(他の登場小説「誓い」「Guardian」「MATERNITY PINK」)
スヴェラ ニケア出身。ED後、モブリズに住む看護婦。チャーリーの妻。(他の登場小説「誓い」「Guardian」「MATERNITY PINK」)
イルス ツェン出身。ED後、モブリズの孤児院に身を寄せる13歳の少女。
ラスカ ED後、モブリズの孤児院に身を寄せる9歳の少女。
アルフレッド

ベクタ出身。将軍時代のセリスの副将をしていた男。彼女の心を支え続けたが、彼女が帝国を逃げ出すまで追いつめられていたことを気に病んでいる。
ED後、モブリズで用心棒兼子守をしている。ロックと喧嘩して訪れたセリスと再会することになる。

※「prisoner」に登場したアレクス・スライクとはちょっと設定が違うため名前を変えました。

バロン ED後、帝国でバー「アスタリスク」とハンターを営むロックの昔なじみ。
マルグリッテ バロンの娘。ロックに想いを寄せている。黒髪にラベンダー色の瞳をした可愛らしく女らしい人。